後日談の生き方

性欲を持て余し気味な私が、後日談のような人生をいかに生きるか研究するブログです。

幸せは眠りの中

今まで人と一緒のベッドでよく眠れるということがなかったのですが、

唐突な運命に出会ってから

相手の体温でそうっと眠りに落ちて、

昼過ぎまで二人で寝るとこが幸せでしかたありません。

 

先に起きて、相手のまつ毛のまばらさを愛しく見つめるとき

これが私のほしかった安心というものだと噛みしめています。

 

安心を手に入れると

今まで何者かになりたくてなれなくて

もがいていたような自分が遠く感じられます。

心の奥が穏やかな凪の海のようです。

 

ださくて底辺よりの平凡さでいいから

この人といる日常を大切に生きていけたらいいなと願っています。

日常に埋没していくことが幸せだと感じる自分が見つけられてよかったです。

 

でもやはりこの瞬間に世界が終わって

この瞬間が永遠になればいいのにと願う自分も相変わらずいます。

 

過去の後ろめたいことも

けしてばれなければなかったことになるなと

罪悪感より開き直って冷静にたかをくくっている自分もいます。

 

でも昼の白い光に包まれて

相手のまつ毛をそっと見つめるとき

この人の平穏と幸せを

縋るような気持ちで祈っていることもたしかなのです。

 

これからの自分をすべて捧げて

この人の幸せを守れればいいなと思います。

 

運命と出会って初めての春がもうすぐきます。

運命は唐突に訪れる

久しぶりにブログを書きます。

記事を書かない間様々なことが起こり、人生の転機というものを経験しました。

前回の記事で書いた相手と結婚を前提とした同棲をしたものの、

同棲開始の半年ほど前からのなぜかセックスレスになり(ディープキスすらしてもらえない)苦しい夜を歯を食いしばって浮気などせず耐え、前回の記事にでてきたどうしてもヤリたい相手とのセックスも我慢し、まっとうに生きたいと努力したあげく、わずか4カ月で相手から出て行けと言われ(結婚も同棲も相手の望みにこたえる形でした)性欲に耐え切れず早速男漁りを開始するというようなことが起こりました。

 

 

なぜ久しぶりにブログを書きたいと思ったのかというと

その男漁りの過程(今回はまっとうな婚活パーティーなどです)で、

赤い糸の運命の相手だと勘違いできるほど、

今までの性欲にふりまわされて苦しんだすべてのことが伏線だと思えるほど

衝撃的に相性がいい相手と出会ってしまったからなのです。

 

その相手とすると

私は今人生最高の瞬間をむかえているといるのだという感動に震えてしまうほどです。

 

セックスをわかった気になっていましたが

私はなんにもわかっていなかったのを思い知らされました。

 

まず本当に相性がいいというものは

腕と腕など、皮膚がほんの一瞬かすかに触れ合っただけでも気持ちいいのです。

 

そしてキスが気持ちよすぎてやめられなくなります。

粘膜がふれあっている単純な心地よさだけではなく、

どのタイミングで舌を絡ませあうのか、どういう動き方をするのか

どの程度唇に力をいれるのか、あるいは力をぬくのか

どのくらいの力で顔を押し付けるのか、あるいはすれすれで触れ合わせるのか

キスしている間の手のまさぐりかた

抱きしめる力や、ぬくもり

 

どれをとっても完璧といっていいほど最高なのです。

まさに呼吸が合うという感覚です。

 

そしてなによりお互いキスを求める気持ちの温度も同じです。

求める気持ちの温度が同じだから、相手の刺激にこたえるたび

お互いに欲望の温度が上がり続けて、

いつまでもいつまでも唇を離すことができずに

会った翌日は必ず口周りの皮がむけているほどです。

 

肝心のセックスですが

まず第一に肌とはだが合わさるだけで心地よくてうっとりするのですが

お互いの性器の形状の関係でしょうか?

ただただ挿入するだけ、それだけでイイです。

 

私はクソビッチのくせしてナカでは性感を感じないタイプなのですが

入れるだけそれだけで気持ちよくなれました。

 

自分のとじられた狭い場所が

ぐぐぐっと柔らかくしかし確かな存在感で押し広げられる

それそのものに快感を伴います。

 

でも私が一番感動したのは

やはり自分の興奮と相手の興奮がぴたりと寄り添って絡み合う感覚を感じ、

安心感と信頼感と愛しさと相手がほしいという自分が感じている欲望が、

まったく同じ温度で相手も感じているんだという確信を感じたということです。

 

非常に感覚的でうまく言い表せませんが

馬鹿らしくいかにも恋愛初期のフィーバー状態といった感じで

自分自身も信じたくないですが

 

やはり私の直感が

私が感じているすべての感覚はそのまま相手のものだと叫ぶのです。

 

これは非常に不思議な感覚でした。

今までのセックスは

体はつながっていても私たちは完全に別の個体で、

けして心や感覚は繋がることはできないという

冷たい事実と孤独がすべてでした。

 

今私は子供のようなひたむきさで、

自分が感じていることは相手が感じていることだと

なぜか信じることができるのです。

 

ここまで相性がいいと

とにかく会っている間中セックスです

ヤリすぎて勃たなくてもとにかく求めあってしまいます

私はどこからあふれてくるのか笑ってしまうほど

いつでも濡れている状態です。

 

猿並みです。

 

以前私はこのブログに

 

「自分をまるごと曝け出して

お前はどスケベだって罵ってもらえたなら

 

その上で一緒にエロの海に落ちてくれる人がいたなら

どんなにいいだろうとも思います」

 

ということを書きました。

それが今叶いました。

それも期待した以上の形で。

 

さらにいうと

なぜエロをここまで切実な思いで求めてしまうのか

それによって自分はおかしいのではないかという罪悪感とコンプレックスを抱くこと

 

そんな自分を理解してもらえず

セックスしたいと思う相手(またはするべき相手)に

冷たい仕打ちを受けてきたこと

 

そんな理由まで似通っていることがわかりました。

 

今、私は全幅の信頼感を持って

相手に自分のどスケベさを見ていてもらえます。

 

信頼できる相手に

自分の弱みを心の一番やわらかい部分をさらけ出して

見てもらえることは性感にまさるとも劣らない感情的な快感を与えてくれます。

 

この先どんなことがあって

どんな結末を迎えたとしても

私はこの瞬間を迎えられたことそれだけで

幸せだったと思って死ねると思います。

 

死ななくてよかったです。

生きていてよかったです。

趣味 男漁り

 

 

現在公開中の映画「ニンフォマニアック」vol.1/2を見てきました。


『ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2』公式サイト

[あらすじ]
自らをニンフォマニアック(色情狂、セックスアディクト)と自覚するひとりの女性の半生を詩的かつユーモラスに2部構成、全8章で通して描いた本作。
ある凍えそうな冬の夕暮れ、年配の独身男セリグマンは、怪我をして倒れていた女性ジョーを裏通りで見つけ、自宅に連れて介抱する。怪我が回復したジョーに何があったのか質問するセリグマンに対し、ジョーは幼い頃から抱いている性への強い関心と、数えきれない男たちとの性交渉などの彼女の数奇な物語を語り始める

 

私には友達がいないので、世の女性がどのように性的経験を重ねているのか

リアルなところがわからないのです。

ですので、主人公の性的経験を独白することで物語が進むこの映画が

まるで擬似女子会のようで楽しめました。

 

 

話は変わりますが、

先日ここ数年で一番めちゃくちゃヤりたいと思う人を見つけてしまいました。

(けして恋愛感情とかではなく、セックスしたいと思うだけ)

 

ここ数ヶ月、男漁りをつき進めていくのは私には身に余るなと感じていたので、

付き合っているっぽい関係の人を一人残して

丁度真面目に生きていこうとしていたところでした。

 

「誰にどうバレてどうなってもいい」と近しいエリアで

節操無く漁りまくるという下品な行動に出ることができたのは

自身の身の破滅を望んでいたからこそできたことでした。

 

ただ、特定の関係を特別視してしまうと

保身の気持ちが出てしまいます。

 

めちゃくちゃヤりたいけど、そしてヤれそうだけど

それを行ってしまうと今の特別な関係を壊してしまうかもしれない。

そう思うと、グッと堪えるのが理性ある人間というものでしょう。

 

でも、そんな決意とか道徳とか踏みつけてしまいたいほど

ヤりたい人に出会いってしまいました。

 

先日一人の人との関係を大切にすると胸に誓ったばかりなので

いつもの習性に従いヤれそうオーラをガンガンだしてしまった自分が気持ち悪いです。

自分のような女がそばにいたら、最高にヘイトできる嫌な女だと思います。

脳内にて、「絶対女友達いないだろこの女」等汚い言葉で罵ると思います。

(そして本当にいない)

 

男性がいる場での私は、

地味目で気弱そうで言葉遣いも堅すぎるくらい礼儀正しく、

大人数で話してる時は曖昧な笑みで相槌だけ打つくせに

一対一になると甘い口調で男性を褒め称えはにかむ。

下ネタには基本的に照れるくせに時々グッとのってきたり引いたりを巧みに行い、

(ちゃっかりボディータッチは積極的、しかし目立たない)

その場に居合わせた他の女性は、その場の道化的役割を

自然にやらざるを得ない雰囲気をさりげなくつくりだすけれど

白々しいお世辞を同性にも吐くことのできる等の

もっとも嫌悪するべき女です。

 

本当に自分はドグサレゲロクソビッチでしょうもないと思います。

ニンフォマニアックの主人公のように

ビッチ道を堂々と突き進むこともできない。

 

彼女は自身のオーガズムへの飽くなき渇望に従い

すべてを投げ捨てて追求していました。

それは破滅を迎えるまで一貫していて清々しさを感じます。

 

私は一体何に突き動かされてこんなことをしているのか、

自分でもわかっていません。

このテーマはこのブログでも何度か書いてきましたが、

どうも正体がつかめません。

 

ニンフォマニアックの主人公のようにオーガズムを感じることもなく

一体なにが欲しくて私は、めちゃくちゃヤりたいとか思うのでしょうか。

 

しかしこの衝動は私の中でかなり大きいものです。

全てを失ってもいいのか迷うほどです。

 

 

片手落ちですが、わかっていることは主に下記の4点です。

 

・純粋に男という生物が好き

(これは以前もブログに書いた気がします)

 

・自分の性的価値を効果的にチラつかせて、

 みごと餌にかかったと確信した瞬間に狩猟的快感を覚える

(相手が普段の顔をすてて性欲の露わにした際の独特の目つきを感じる時

脳内麻薬がドバドバ出ている感じがします)

 

・相手が性欲を露わにした瞬間に

自分の下劣さを(程度の差はあれど)人は誰しも持っていると確かめるため

 

・人を喜ばせている感覚に安堵感を覚える

 

特に 2番目の理由の

男性がこちらのセックスアピールにまんまとのってきた瞬間の

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!となる感覚の中毒なのかもしれません。

 

余談ですが、その感覚をニンフォマニアックでは

ルアー釣りで表現していました。

 

釣り場の地形を読み戦術をたて、ルアーを巧みに装飾し、そして操る。

一連の映像に深くうなづきつつ非常にワクワクしたので

もしかすると私は対象が男性の釣りが趣味なだけかもしれません。

 

最近のこと

最近流行っている「嫌われる勇気」を読みました。

 

アドラー心理学 - Wikipedia

はたしかにと思うことが多いし

そのように受け入れられてたら変われそうだなと思います。

 

だけど、今現在の私個人にとって

あまりに劇薬過ぎて飲み込めないというのが正直な感想です。

 

「でも、だって」と声を上げて

ヒステリックに反論したくなります。

 

でもこのまま量産型かまってブスとして*1

泥水をすする心持ちで

堂々めぐりの思考を続けて生きていていいのかとも思います。

 

 

最近の私の心休まる瞬間のひとつは、

男性にバックで突かれているときです。

 

正直クソビッチのくせに、ナカではほとんど性感を得られない質なのですが、

自傷行為としてのバックが好きです。

 

具体的には

内蔵を突き上げられている際の生理的な不快感、

 

惨めであさましく

一歩引いてみれば最高に馬鹿らしい体勢をとっている自分への嘲り、

 

相手の男性に自分がこの女を支配していると勘違いさせるための

細心の注意を払って行う演出の数々、

 

(例えば、深い快感で我を忘れている雰囲気を伝えるためにいつもより幾分か獣じみた喘ぎ声を上げるだとか、定番のシーツを必死に握りしめるだとか、そんなかんじの演出です)

 

そしてそれを行うために

集中している時の頭の底が冷えているように感じられる瞬間、

 

それらが一体となった時のなんともいえない感覚が好きです。

 

私は純粋な痛み関してはビビリで敏感なので、

リストカット等の実際の痛みを伴う自傷行為ができません。

 ですので、セックスをその代わりにしているフシがあるなと思います。

 

そんな毎日です。

 

*1:「メンヘラとは美少女を指す言葉で、美少女でないメンヘラはかまってブスと呼ぶべきだ」という言葉どこかで見かけました。以降引用しております。

虚しさの中で欲望は肥大化します

ああ、その通りです。

私はただ、虚しいのです。

さっき偶然みつけて、視聴しました。↓


テレフォン人生相談の放送内容があまりにひどい件 ‐ ニコニコ動画:GINZA

 

 

小学5年生の時、

性的内容を主題にした漫画を友達から借り、

返そうとランドセルに入れていたはずなのに

 

なぜか母親がそれを見つけていて

「この本は、この内容はなんだ」と問い詰められ、

お前には失望した、そんなのは私の子供ではない

ショックだ、傷ついた

というような言動でなじられ

涙ぐみ、うなだれるばかりの母親を見ながら

 

どこにも行き場がないような気持ちを思い出しました。

 

 

高校生の頃何もかもやる気がなく、

人間関係も行き詰まり

学校でも居眠りばかりして

しょっちゅう呼び出されていた時

 

ひまつぶしとやりきれなさをまぎらわせるために

JKブランドを売りに様々な男を携帯サイトで釣っていた時、

釣りメールの中身を読まれてしまい

問い詰められた時、

 

自分があまりにも惨めで滑稽に感じられ

一晩中笑いの発作のようなものが止まらずにいた気持ちを思い出しました。

 

母親に私個人が一人の人間として

母親の従属物でなくなっていく過程を悟られるたび

 

責め立てられ

 

自分の存在に罪悪感を感じ

 

お前のためだという主張で私を縛る母親を

心底憎みつつ依存し

中途半端な自立したいという自我をもった自分を

呪いつつ、持て余しつつ生きていました。

 

(このようなエピソードは思い出せばさらにたくさんあります)

 

性的なことをするのは

やっぱりどうしても

根本的に罪深いことだと思っているふしがあり、

だからこそ、私はそこに固執しているのだなと

思い当たってしまいます。

 

私に関する全ての価値は

認められません。

 

自分が価値がある個として尊重されるべき人間だと

根源的に腑に落ちたことがないのです。

 

おそらく物心のついた5歳くらいから。

 

 

ただ、

「肉」としての価値は信じられる。

 

自分が異性にどう振る舞えば

性的興奮を煽ることができるのか

性的魅力を感じさせられるのか

それは信じられます。

 

本当にただのステレオタイプの

ありふれたメンヘラクソビッチ、

正しくはかまってブスクソビッチなのですが

 

(最近、

「メンヘラとは美少女を指す言葉で、美少女でないメンヘラはかまってブスと呼ぶべきだ」

という言葉どこかで見かけました。

まったくその通りだと思います)

 

やっぱり苦しい物は苦しいし

乗り越えられないものは乗り越えられないし

虚しくてやりきれなくて、

性的に求められていると安心してしまう自分がいます。

 

今でも性的なにおいを絡められない男性と接するのは

どう接していいかさっぱりわかりません。

(さらに言えば、自分がリラックスして接するためだけに

性を匂わす態度をわざととってしまいます。)

 

まして女性ともしっくりこないし

 

ただただ生きづらくてしょうがないです。

 

でもまだ死なないので

生きて生きていきます。